ヴィトゲンシュタインにおけるキルケゴールの影響について聞き知ったので、触発されてSSを書いてみました。 つづきからどうぞ。 俺は嘘を吐いた。
何かに呼ばれたような気がして男は目を覚ます。自分は一体何処にいるのか、自分は今まで"寝ていた"のか、という問いが浮かんでくるよりも前に、「彼」は現れた。 「やあ、絶望しているかい?」 嘲笑と同情と軽蔑と慈愛とが同時に鳴り響く。いや、もっと多くの音がなっているようにも聞こえる。しかし、耳を澄まして全てを聞き取ろうとするには五月蝿すぎるほど多くの音がその一声には含まれていた。たった独りの言葉の中に全てを含ませる、そうして全てのものの声をうつしとろうとするこの「魔術師」のことを男は知っていた。 「セーレン・キルケゴール…」 意識をすり抜けていく認識をこの場に縫い付けるように男はそう呟いた。宿命の敵に出会ったかのように憎憎しげに、それでいて長年連れ添った友人に出会ったような懐かしさをもって呟かれたその声は、キルケゴールを微笑ませた。愚かな自分を笑っているように、男には見えた。とは言っても、その姿は意識がはっきりとしてくるほど朦朧とし、輪郭が意識をあふれ出していってしまい、表情を確かに読み取ることはできないのだが。 「君は自分が「絶望」しているということに気付いているようだけど、一体どれだけ絶望しているんだい? それを告白すことはできるかい?」 「ここは何処なんだ、俺は死んだのか? 永遠による審判が始まったのか?」 「さてね、悪いが僕は応えることができない。僕はもうただ、イデーのものだからね。もう僕は僕の言葉を持たないんだ」 「は、そうやって俺をからかっているんだろう。曖昧に己をはぐらかしながら、俺を笑っているんだろう」 「君がそういう風に僕を読むのならきっとそうなんだろう。言ったはずだ、僕は応えられないとね。僕はいまや、本当に鏡でしかない。「私」の言っている意味が分かるかね?」 「ははは、ずいぶんな饒舌家だな! 反吐が出る!」 「それは結構。賢明な判決だ」 男の野蛮な笑い声にキルケゴールはそう淡々と応えた。その声は研ぎ澄まされた怜悧さがソロで歌っているようであった。ああ、これも嘘なのだと、男はすぐさま悟った。キルケゴールの声に耳を澄ませば済ますだけ、自分は幻惑に囚われる。彼はそのような魔術を心得ている男なのだ、と男はわが心に何度も繰り返し言い聞かせた。 「…ああ、さて、なんだったかな。俺がどれだけ絶望しているか、という話だったか。ああ、一体どれくらいなんだろうな、それが分かれば、しっかり見て取ることが出来れば俺はこんなに絶望する必要はないだろう!! はは! キルケゴール、お前の言っていることが俺には"よくわからない"よ! 俺には宗教と言うものが疑わしくてならない、しかし、その恵みを俺はどうやら欲しているらしい。俺は神の恵みの中に逃れていきたい、こんな罪の意識から解放されたい! 一体どうして俺はあんな嘘を吐いたんだろう。どうして俺はあんな罪を犯したのだろう。俺は正しいことをしようとしただけなのに、どうしてあんなことになったんだ! 俺に嘘を吐かせたのはなんなんだ! …キルケゴール、俺にはお前が分からない。どうしてそんなところまでいけるんだ? 俺の脚はすっかり躓いてしまって立ち上がることすらままならないというのに、お前はどうしてそんなところにいるんだ? どうやったら…」 男はそう叫びながら思い出す。倒れた彼の小さな生徒の姿と、そのときの焦燥と苦痛とを手繰り寄せる。そうして何度も自らの手で罪を引き寄せながら、彼はただそれをいかにして手放すかに悩んでいた。悩みながらに罪を求めていた。彼にはいよいよ自分が何処にたっているのか分からなくなってきていた。 キルケゴールは男の目の前にたって、混濁する男の瞳を覗き込んだ。いやむしろ、自分の目に男の姿をうつしこむようでもあった。そして彼は彼の声を彼の声として、無限の音色を一つの音楽に収束せしめるように、丁寧に言葉をつむいだ。 「ああ、我が友よ、君は僕を読み違えている。僕は信仰の英雄なんかじゃない。アンティ=クリマックス、確かに彼は僕よりもずっと高い位置に居る、異常なまでのキリスト者だ。だけど、ねえ、よく聞いて。彼は僕じゃない。僕は嘘つきなんだ」 「そんなことは分かっている。お前の言っている事は全てが嘘だ。俺が聞いているのは、一体なにが真実なのかということだ!」 「ああ、言葉に踊らされるヨブよ。聞いて、しっかり、僕の話をそのまま、ありのままに聞いてくれ。僕は嘘つきなんだ。僕は嘘をついている。ただ僕にとって真実であることを君に伝えているだけにすぎない、――嘘によって。君のことを悪く言ったり、傷つけるつもりは、僕にはない。アンティ=クリマックスというのは僕の嘘だ」 「俺にはお前のことが見えないよ、キルケゴール!」 男がそう叫んだ途端、一瞬、ほんの一瞬間だけ、男はキルケゴール瞳の中の己ではなく、キルケゴールの目を見た。しかし、そう感じた瞬間に碧い目はその実体を失い遠く彼方へ消え去ってしまった。いや、どこにも行ってはいないのだ。ただ焦点があわなくなってしまった、男の視線はキルケゴールを通り過ぎてしまった。 「俺は、俺の仕事に対して楽しくあるというあり方しか、信じることが出来ない…」 男はもはやなんのぬくもりも残っていない暗闇に向かって呟いた。 「俺は神の光を真正面から受け止めることが出来ない。俺は、弱い。そんなことは出来ない。俺は俺の仕事を楽しくやる自分を手放すことが出来ない。俺は貴方の光を「或る程度まで」は感じることが出来る、しかし、その先にはいけない。キルケゴールのようにはなれない」 男は己の手に目を落とした。男はここに己があるということは分かる。分かってしまう。神の光をいくつ者影によって拒絶し、薄明かりのなかでただ己だけを浮かび上がらせる。だが、その先にはいけないのだ。影を捨て去ることがどうにも男には不可能なことのように思えた。 「我に躓かぬものは、幸いなるかな」 その声は一体誰の声だったのか、遠く遠く彼方から響き、それでいて己の奥深く住み着く影の中から発せられたようにも聞こえた。 「我に躓かぬものは幸いなるかな」 男はそう、反復した。 何かに呼ばれたような気がして男、ヴィトゲンシュタインは目を覚ました。手元に目を落とすと、書きかけの日記とペンが転がっている。朦朧とする頭を振り回すようにしてあたりを見渡すと、自分が何処にいるのかという問いに景色が静かに答えてくれた。ああ、ここは自分の部屋である。男は頭を抱えて、思いため息を吐いた。 「酷い夢だ」 呟くごとに、夢の風景は霧散していく。彼の受け取った問いも、彼の声も全てが曖昧さと忘却のなかに逃れていく。 しかし、夢の残り香が彼に染み付いて離れない。もはや何もはっきりと思い出せないというのに、沈黙の中で何かが静かに自分を呼んでいる様な感覚がヴィトゲンシュタインにいまだ付きまとっていた。 「…俺は今、起きているんだよな?」 沈黙を振り払うように、彼は呟いた。しかし尚、彼の沈黙は彼に呼びかけている。その声はあの男と同じような無限の音色をしているようでもあった。 沈黙は言う。永遠は言う。 起きろ、起きろ、起きろ、と。
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September 2015
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