「死に至る病」とは、我らが哲学かぶれの宗教的著作家セーレン・キルケゴールがアルティメットキリスト者という設定のアンティ・クリマックスという匿名で書いた自他共に認める彼の主著であり、絶望という自己が自己であるがゆえに必ず起こる弁証法的な病(=死に至る病)を心理学的に詳細に描き出しつつ、キリスト教的な贖罪の原理を示すことでその絶望=罪から脱する糸口を提示するキリスト教的=心理学的論述である! 絶望を知らない一般人にも現実に絶望して厭世家気取っているメガ中二病にも自分の病んだ精神をもうしょうがないじゃないと受け入れ自己愛に浸っているメンヘラにもその他「信仰者」じゃない全ての人に効果抜群な叙述たっぷりなので哲学知らなくても人間の闇に触れたい人には面白いでしょうし、キルケゴールの今まで書いてきた本の総集編的な立ち位置を占めているのでこれからキルケゴールを知りたい人にも大変オススメな一冊!なのですが… やたら冒頭が難しい。 「自己とはなんであるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、…-それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。」 「二つのものの間の関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つの者は関係に対して関係するのであり、それも関係の中で関係に対して関係するのである。」 「自己自身に関係すると共にかかる自己自身への関係において同様に他者に対して関係するところの関係である。」 いや、まじで、ハア?? おまえデンマーク黄金時代を作り上げた名著作家の一人だろ!!!あんだけすげー文章書けるくせに本気出してそれなの!?しかも冒頭からそれなの!?!!いいかげんにしろよ!!! とまあブチギレたくなる勢いで冒頭から殺しに来るわけです。ちなみに個人的にはこの本で一番分りづらいのここだと思います。なんで一番最初にあるの??そのせいで何人この本読むのやめたとおもってんだよ!!!!!! ということで、私自身も怒りにまみれながら何回も説明に失敗してきたこの部分について、それらしく解説を加えていくのが… 死に至る病をがんばって読む! 第一回 関係に関係する関係に関係する話 ( 1 絶望が死に至る病であるということ。 A 絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。―絶望して、自己を持っていることを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。 p.22-25) 14.12.27 「措定する力」と「絶望形態」の説明を修正しました 自己とは綜合であり、反省である「自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係と言うことには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、――それで自己とは単なる関係で話に、関係が自己自身に関係するというそのことである。」 何言ってんだこいつ。 というわけでこの文が何の話をしているかから見て行きましょう。 人間はというのはただひたすら欲深い生き物なわけでもなければ、純粋に愛と良心にあふれた存在でもない、両者の要素を二つとも持っている存在です。また、自分に出来ることは能力などなどのゆえに制限されてはいるものの、可能性は無限に広がっているわけで、有限的でも無限的でもあります。またさらに、自由に自発的に行動ができるものでありながらも、認識のメカニズム等々の因果法則の中にも組み込まれているわけで、やっぱり自由と必然両方の要素を持っているわけです。 つまり、人間と言うのはそういう二つのものが合わさったもの、綜合なのです。 いうなれば、カレーという要素とライスという要素が合わさったもの=綜合である「カレーライス」が人間なのです。 さて、カレーとライスとカレーライスはどのように関係しているかと言うと… つまり、カレーとライスという二つのものはカレーライスという「関係の中で関係に対して関係」しているのです。 同じように自己も綜合(=関係)として、有限性や無限性、自由や必然とこのような関係にあるわけなのです。 しかし、自己とはこのようにただ二つのものが単に繋がっているというわけではありません。
自己を自己たらしめるものさて、カレーライスという関係(綜合)は、このように自己自身へ関係する事によって積極的な第三者としての関係(綜合)となった時に自己になります。 「自己自身に関係する関係(オレはカレーライスだ!と思う関係)」(=(積極的)カレーライス)というものを導き出すには、カレーとライスの関係がカレーライスという形で定められたのと同じように、その関係は何らかの方法によって形作られなければなりません。 自分で自分をカレーライスたらしめる仕方はさきほどの反省的な関わり方と同じです。 では、他者によって「おまえはカレーライスだ!」という仕方でカレーライスとしてのあり方が確立される場合は他者と自己はどんな関係になっていくかというと…
さきほどネタバラシをしておいたとおり、自己は他者(他なるもの)によって措定されているタイプの関係です(その理由は後述)。なので、カレーライスという関係(綜合)を積極的第三者として自己は、上のような仕方で導かれる(派生してくるabgeleitet)というわけです。つまり…、 「自己自身に関係するとともに、自己自身への関係において他者に対して関係するところの関係」が 自己なのです! 図式化すると、(カレー+ライス)(A)+関係を措定する力(B)=自己自身に関係する関係(綜合=積極的第三者=自己)(C)という定式になっているってことです。自分自身が二つのもので出来ているという綜合と、そんな自分自身とそれを措定するものの二つで出来ているという綜合が二つあるわけです。ちなみに、絶望は後者の綜合の内で起こります。 ここでCはAとBに対して、カレーとライスに対するカレーライスの関係に立っているわけですから、カレーライスがカレーとライス両方に関係しているように、CもA(自己自身)とB(他者)両方に関係しているのです。(自己自身への関係において(indem)、というのは、自己が積極的第三者たろうとする時に他者と関係することになる、という意味合いで取れば分かりやすいかなと思います。) 絶望の種類と信仰の定義自己っていうのはこういう構造になっているということが分ったよヤッタネ!!!ってことで、ここから自己=精神の病であるところの絶望のパターンというものが見えてきます。
章題にもあったように絶望は三パターンです (1)絶望して、自己を持っていることを意識していない場合(非本来的な絶望) (2)絶望して、自己自身であろうと欲しない場合 (3)絶望して、自己自身であろうと欲する場合 (1)はそもそも自己とは何ぞやということが分ってないタイプの非本来的な絶望です。あーもうどうしようどうしようひいいとなるばかりの、自己の本来的な分裂関係に気付いていないものです。 本来的な絶望とは実際は積極的第三者である自己における分裂状態のことなのですが、詳しい事はとりあえずおいといて…、結果本来的な絶望の形態と言うのは(2)と(3)になります。 (2)は「絶望して自己自身であろうと欲せず自己自身から逃れでようと欲する形態」とも言い換えられています。 ざっくりいえばこれは「絶望(分裂)している状態の自分」で居続けたくなくて「絶望していない状態」へと逃れていこうとする絶望です。 とはいえ、自己というのは「自己自身に関係する関係」と「その関係を定める他のもの」の相互関係によって成り立っているので、自己は自己が独り決意したって自己である事はやめられません。 だから独りで絶望はいやだ!絶望はいやだ!とどこまでも逃げ出していっても、あるいはそのように絶望を拒否しながら絶望と戦っても、自己から逃れる事はできず、ハムスターが滑車をぐるぐる永遠と回っているのと同じようにひたすら絶望の渦巻きの中に囚われていくだけなのです。 しかし何故このように絶望の中をぐるぐるまわってしまうのか? 「自己自身であろうと欲さなくなる」ということはつまり「(今の自己ではない別の)自己自身であろうと欲する」ことであって、結局のところ全ては「自己自身であろうと欲するところ」から来ているのです。 というわけで(3)は、絶望の一形態でありながら他のあらゆる絶望が還元されるところの、最も根源的な絶望の形です。 「自己自身であろうと欲する」ということはつまり、「自己を定めるもの」という他者(図と言うとB)を自分から切り離してしまって、自分自身だけで自己を措定してやろうとしている状態です。 もし、人間の自己が自分自身だけで自己を措定していたのなら、このようなあり方が絶望になるなんてことはありません。けれども、実際にこのような絶望の形態がでてくるのはひとえに、「自己に関係する関係である自己」と「その全関係を措定するあるもの」とで成っている(つまり、他者によって措定されている)依存的なものだからです。 (2)と(3)の絶望形態の細かな内容は後々見て行くとして、イメージのためにざっくりお話しすると… 人間は「自由と必然との綜合」であるというのは最初に見ましたね? そんな綜合である自己を拒絶して「ああ完全に自由である自己になりたい…!!」と逃げ出していくのが(2)の形態。 これはつまり、「自由と必然との綜合」として他者によって措定されているにも関わらず、自己が「いいや、おれは完全に自由なものだ!」とか逆に「おれには自由なんてまったくなくて、必然に支配されているんだ…」とか言って自己を勝手に措定しようとしちゃっているということと同じなのです。そしてこれが、(3)の絶望形態なわけです。 では、これらの絶望を解消するにはどうしたらよいのか? 自己は他者によって措定されているものなのだということを受け入れて、「自己(に関係する関係)」と「その関係を定める他のもの」の関係の中に意識的、自覚的に入っていけばよいのです。 というわけで、 「自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して(=積極的第三者としての関係になろうとする時)、自己は自己を措定した力(他者)の中に自覚的に自己自身を基礎付ける」というのが絶望が完全ネコソギにされた自己の定式でありまた、信仰の定義でもあります。 あとはひたすら絶望の分裂関係とはなにか(第一部)、この定義に従って絶望(罪)をねこそぎにするとはどういうことか(第二部)の説明が続きます。 ……つらい!!!! 確かに話を始める前に全体の流れや構成を確認したほうがいいにしても非常に分りづらいんだよ!!!!!絶望の形態とか色々はしょりすぎだろ!!!!もっと…分かりやすい書き方あったろ!! というわけで、1-Aでした。この章がいかに全体のまとめであるかは読んでいくにつれてわかります。 気が向いたら続きも書きます。
0 Comments
Your comment will be posted after it is approved.
Leave a Reply. |
About裃挫憂(じょうげさゆう)が運営する哲学者美化創作メモブログサイト Archives
September 2015
Categories |