ハイデガーとレヴィナスの思想的対立解釈漫画「存在照明の彼方」を書いたんですが、二人ともハイデガー語圏内の人でかつ省略的な比喩表現を多用する人種なので、ハイデガー語に親しみがないと台詞運びが難解でようわからんとの声を受け、ナンセンスかなと思いつつ用語解説アンド思想対立の概要の解説をまとめようと思います! ニュアンスが分かってくると、奴らの言葉遣いにもなるほどな~となれるはず(私はそうだった)ので、何言ってんだ呪文かな…?と思った人の理解の助けによければどうぞ。 というか、思想対立を萌え漫画で表現するのが私の基本スタンスで割と分かりやすい語でやっていたはずだったが、何分言語圏が違う人達をそのまま扱うとダメだったっぽいな。 やっぱりハイデガー語は罪深い。あと息を吸うようにハイデガー語に親しんでるレヴィナスも罪深い。お前らの所為で世の哲学徒が一体何人死んだことか!!まったく!!デリダのこと見習ってよね!!! (内容は続きからどうぞ) ・存在の光ハイデガーの存在論とは一体何なのか。何を問題にしているのか? そして、「存在するとはどういうことか?」という問いはどうして革新的であるのか? これらの回答が漫画前半で語られていることの内容で、多分一番ここがピンとこないところかなって思います。(私も正直今までの問いと何が違うんだよって思ってましたけど最近やっとピンと来たのでコレかきました) そこでキーワードとして私が引用しているのが「存在の光」です。 まず、ハイデガーは現象学の流れ、即ち師匠・フッサールの「あるべきものをあるがままに」のモットーの元で哲学をしています。 フッサール先生については勉強不足なので割愛させていただくとして、とにかく、目の前に起こっているもの、存在しているもの、その観察や考察を通じて真理に到達しようと言うのがハイデガーの基本的な方向性であり、現象学のしようとしていることです。 さて、私達の目の前にはりんごだのペンだのあるいは人間だの色々なものが「存在」しています。 そして、正義や愛や善といった観念的なものも、思索する対象として「存在」しています。 それまでの哲学では普通、そういうものを取り上げて「正義とは何か?」「善とはなにか?」と問いを立てたり、私たちのように今ここに「存在しているもの」を取りあげて「存在とは何か?」と問われてきました。 しかし、そこでハイデガーが注目したのは、そのように問われているところのもの(正義、善、存在…等々)が問われるものとして私達の前に「存在している」とは一体どのようなことなのか、ということです。 私たちがそれを問題にするのは、私達の前にそれが「存在している」からです。私達の世界にりんごが存在していなければ私達はりんごを問題にしたりしないでしょう。私たちが問いを投げかけているところのもの(ハイデガー語でいうと「存在者」)がそこに「存在している」ということ、私達の前にあらわれているということ、これは一体どのような「現象」であるのか。そのように、存在しているものの根本、問われるものの前提を知ることで、それが本来どのようなあり方をしているかを解明しよう、というのがハイデガーの哲学です。 このような問いの主題となっている、存在者を存在させているものをハイデガーは「光」に例えています。 たとえば、暗闇の中にいると私達は何も見えないし自分自身の姿も見えません。もし目の前にりんごがあったとしても、闇の中ではそれがあると認識することができないでしょう。しかし、そこに光が当てられれば、りんごは私達の前に姿を現します。つまり、何もない闇だったところから、りんごが「存在する」ようになるのです。 そのようにりんごが「存在する」ようになるのは、紛れもなく光のおかげでしょう。 ハイデガーが問うているものはまさにその光、ものを私達の前に「存在させている」光なのです。 そして、私たち自身もこの光によって照らし出されることによって「存在して」います。さきほど、闇の中では自分自身の姿も見えない、と言ったように、やはり「存在する」という光がなければ私と言う存在も存在してこないのです。 私達は人によって色々なあり方をしています。正義に忠実な人もいれば愛に溺れる人も居る。それぞれ様々な性格、人生、想いがあって、しかし皆同じ「人間」として存在しています。 そのように人が多様なあり方をしている仲で、「人間とはなにか?」と問われた時、問題になってくるのは何なのか。人間が動物の一つの種であるような区別の仕方ではなく、まさに私たちが「人間」であるということはどのようなことに由来しているのか。 ハイデガーによれば、それは「存在」、つまり「存在している」ということ、「存在の光」なのです。 私達はまず人間として「存在していて」、そこに人格や想いなどが個性としてのっかっています。もともと裸のきせかえ人形に、それぞれ個性と言う名の衣装を着せているという感じです。でも元は皆同じひとつの着せ替え人形であって、その着せ替え人形があのような人形、つまり「人間」の形をしているということが「人間であること」つまり「人間性」を形作っているのです。 リカちゃん人形が色んな服を着ててもリカちゃんなのは元がリカちゃんだからで、ダッフィーがどんな服を着ててもダッフィーなのは元がダッフィーだからです。このとき、リカちゃんとダッフィーの違いを形作っているのは、衣装ではなくて素体の違いですよね? 存在の真理とはおそらくこの素体、着せ替え人形の元々の姿にあたるものです。存在の光に照らし出されて「存在している」という一番始めの形。人格や個性、正義や神や善といった色んな要素がくっついてくる前のありのままの姿。これがどのようなものであるかを解明することで、私たちが「人間としてある」ということはどういうことかを理解することができる、というのです。 このことを無視して、服を着た人間を見ながら正義だの愛だの語る事は本質まで理解するに至らない、「浅い」問いとも言えるでしょう。 「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと「投げ出されて」いるのである。しかも、そのように「投げ出され」ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光のなかで、存在者がそれがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである。(…)人間は、存在の牧人なのである。(ヒューマニズムについて ちくま学芸文庫 p.57)」 この辺が引用・参照元です。牧人ではなくて伴侶って言い方にしたのは、「存在すること」の「近さ」(身近さ)、私達の存在との気っても切れない関係性をまとめて表すにはこっちのほうがいいカナ!って思ったからです。 ハイデガーは「存在すること」は私達に最も「近い」ものである、という言い方をします。というのは、私達はもう光によって照らされた場所に存在しているので、存在の光というものは何よりも私達の存在に当たり前に前提とされているものだからです。 要約すると、今人間として存在しているものが着ている服を一枚一枚脱がして裸の姿にしてやろう、光の下にすべて晒してやろう、隠れてしまっているものを暴いてやろう、っていうのがハイデガーの哲学の仕方です。エロいよね?? そんなこんなでレヴィナスがさりげなく脱がされているわけです。別に意味のないホモ描写じゃないんだよ???? ・「顔」と「手」ざっくり言えば、存在が着ている服を全部脱がしてやろうゲヘヘヘと近づいてくるハイデガーに対して、全部脱がしきる事はできないぞ!と批判するのがレヴィナスです。 ハイデガーはきせかえ人形を裸の姿にするために"衣装"を剥ぎ取ろうとしています。しかし、全ての衣装を剥ぎ取っても人形に残るものがあります。それが「顔」です。 私達の前に他人が他人として現れるのは、彼らが顔を持っているからです。 漫画の所謂モブは、顔が皆同じでそれゆにキャラクター性みたいなものを私達は別に感じません。モブが何人いようと物語りに影響は出ないし、モブが何人死のうが「5人死んだ」「100人死んだ」という風に語られるのみで、特定の誰かが死んだ、と言う風には語られません。 現実にもそういう風に人間が数え上げられる場面は少なくないでしょう。 しかし、私達には確かに一人ひとりの人生があるし、名前があって性格があって自己がある、モブではない一人のキャラクターであるはずです。それぞれの「顔」がちゃんとあるのです。レヴィナスならレヴィナスという顔を、ハイデガーならハイデガーという顔をもっているのです。レヴィナスとハイデガーが並んでいる時、「二人の人間」がそこにいるのではなくて、「レヴィナス」と「ハイデガー」がいるのです。 ハイデガーがしようとしていることは、全員をモブレベルに落とす、キャラ付けがされる前ののっぺらぼうの状態に戻してそこから人間の在り方を規定しようということです。しかしそれは、その人がその人としてあることの尊厳を奪おうとすることでもあります。 それに対して抵抗するのが「顔」です。「顔」が表情とも言い換えることができるでしょう。その人がその人であること、レヴィナスがレヴィナスとしてあることを、「顔」は主張します。「顔」を通して、他者は他者として私達の前に現れて、その「顔」を私達は消し去る事はできません。顔をはぎとって、その人らしさを奪って、たとえば「レヴィナスという人」を殺して、その先の存在へ近づくことは出来ないのです。 そうやって自分の目の前に全てを晒させよう、自分の中に全て取り込んでしまおうというハイデガーの思索は暴力的だ、とレヴィナスは批判するのです。 豆知識 ちなみに レヴィナスにおいて他者とのかかわりが「顔」を通して行われる一方で、ハイデガーにおいてそれは「手」を通して行われます。 ハイデガーの哲学で、他者ひいては世界との関係は手を通して結ばれます。「○○をするために」存在するものを私達は「手」にする。「○○」は「++するために存在する」、「++」は「××するために存在する」という形で全て繋がっていって、そのようにして私達はものの連関のなかに、色々なものと共に存在している、って感じです。(ちょっと曖昧) そしてこの「手」で関わる、「手」に持つ、ということは「所有する」ことであり、それは相手のものを奪って自分のものにしてしまう暴力的な行為であるとレヴィナスによって批判されます。 なので、ハイデガーが他人へ「手」で関わる描写をそのモチーフとしてたくさん仕込んであります。レヴィナスという他人に関わる時も、「手」で「顔」に触れたり、関係性を持とうとするときに「手」を差し出す描写を多様してます。うふ。 ・存在の彼方ハイデガーが目指している真理は存在の根本、人間と言う存在の元々の姿です。具体的で乱雑なことがらを一つにつなぎとめている共通点、人間としての故郷がどこであるのかを見つけ出そうとしています。哲学においてこのように、隠されている起源を探り、明るみに出すという事はよく行われていることです。 しかし、真理があるのはいつだって光に照らし出される前の闇の中なのだと主張するのがレヴィナスです。前に、光をあてることでりんごが闇の中から現れて存在するようになる、と例えました。しかし、りんごそれ自体が、照らし出されるところのものが生まれたのは光に照らし出される前でしょう。そうでなければ、そこに何もなければ光を当てても何もでてきません。光を当ててりんごが現れてくるのは、もともと闇の中にりんごがあったからです。 真理とはそのように、闇の中で生まれてくるものです。それを探し出すために哲学は光を当てて闇によって隠されていたものをあばきだしはしますが、それが闇の中で生まれる、闇の中にもともとあったということは、光の元に照らし出されたものをさして考えている間は問われることがありません。 光を当てた瞬間、闇は消えて、照らし出される前のもの、それ本来の姿というものは分からなくなってしまいます。しかし、私達は光を当てて私達の前に現れたものについてしか考えることはできません。何故なら、闇の中には考える対象が無いように見えるからです。 闇について考えるために光を当てると闇が消える。こういう追いかけっこは私たちが光の中に物を置いてから考えようとする限り無限に続きます。闇はいつでも「光」の「手」からあふれ出して逃げていきます。しかし真理が生まれるのは、そういう闇の中なのです。 漫画の中ではこの闇は「夜」というレヴィナス的な言い方をされています。 「私」にとっての他者も、この夜のような性質を持ちます。他者のことを考える時、私たちは「私達からみた○○」という形でしか考えることができません。客観的に、などというのは理想です。しかし、他者にはもっと奥行きがあります。どんなに多面的に見ようと、他者が他者としてある限り、私達には知りえない闇、秘密、夜が彼らにはあって、それがまさに他者を他者たらしめているのです。 「意識とは、したがって、存在と表象とをひとしなみにして、両者の適合が求められる光の充溢に向かうものではない。意識とは光のこのたわむれ――この現象学――をあふれ出して、ある"一連の出来事"を達成するものなのであって、ハイデガーの考え方とは反対に、そのできごとの究極的な意味は"開示すること"につきるわけではない。哲学はたしかに、そうしたできごとの意味について、その覆いをとって-発見するけれども、これらの出来事が生起するさいに、覆いをとって発見すること(あるいは真理)がその目標であるというわけではない。また、先立つどのようなことがらの覆いが取られて発見されたとしても、このできごとの生起がそれによって照明されることもない。それは本質的に夜の出来事だからである。(全体性と無限 岩波文庫 p.28)」 ハイデガーの哲学は闇の中にあるものが光の中でどのように照らし出されているかを考えるものでした。他者から衣装を剥ぎ取り他者の「顔」を剥ぎ取り、「人間」という裸の姿を、真理を光の下に晒しあげるとを目指しています。 しかし、真理は光に照らされる以前の夜の中で生まれます。真理を、あるべき姿を目指すのであれば、夜とはどういうものかを理解しなければならない。光の中に全てのものを引き寄せていくのではなく、「闇がある」ということを受け入れることが重要なのだと、レヴィナスは言います。 光の下にあるというのは、存在の光のもとで「存在する」という在り方にいるということです。その光を離れ闇と、即ち他なるものと関わるということは、「存在する」というのとは別の仕方において真理と向き合うことを意味します。 ハイデガーは存在の本来性、存在の光の中に留まっていました。留まることが人間としてあるべき姿だと思っていました。しかし、レヴィナスはそれを否定します。いまや、闇の中へ、存在の光の向こうへ、即ち存在の彼方へ踏み出さなければならないのです。 それは光による夜の侵略ではなく、夜への歩み寄りであり、夜があるということを受け入れることです。そしてこの在り方が真理が真理であるというその聖性、ひいては他者が他者であることを保つ姿勢に繋がるのです。 余談・ハイデガーとレヴィナスにおける死ハイデガーにおいて死とは、ざっくり言えば「無」です。死んだら何も無くなる。私と言う存在はそこで「終わる」。これが人間という存在の本来のあり方です。そしてハイデガーはそのように自分の死を受け入れて、そこで自分の存在を「終える」ことを受け入れていました。それゆえに、死に瀕した彼は随分と落ち着き払っていて冷静だったとも言われています。
しかし、レヴィナスは、死を、特に他者の死をそのようにそこで「終わり」とすることを拒否します。そうすることによって、「○○の死」は「死亡数1」という淡白なものに還元されてしまうからです。そこでは、彼がどのように生きてそして死んだのか、そのことに対する敬意やそのことの尊厳は失われてしまっています。そしてそのように淡々と死を受け入れることは、死による彼の生命の断絶を、それによる悲しみを遠くへ追いやろうとすることであり、殺人者の理屈であるともレヴィナスは語ります。 死によって、私と他者は最も強烈に断絶します。 しかし、そこに他者があったこと、彼がいたということが消え去る事はないのです。 死によって沈黙した彼が語ることが生前に彼が語ったことだけです。それ以上のことはもう何も語りません。彼が残した問いにどのような応答をしようと、死んだ彼は正解だとも間違っているとも言ってくれません。ただ無限に問いだけをなげかけてくるのです。そのような在り方で彼らは彼らとして留まります。そして、私は彼らを彼らとして扱うために、私ではない他者である彼と関係を取り結びつづけるために、そのような無限の問いに対して無限に応答するという関係に入り込んでいくことになります。 レヴィナスにおいて死は別れであると同時に、そのような新しい関係の開始であり、また沈黙によって他者がより他者性を帯びる、即ち聖性を帯びるということなのです。 ゆえに、死者に対してレヴィナスが送る言葉は、別れの言葉である「サリュー」ではなく、別れの言葉であり、出合った時に最初にする挨拶の言葉であり、神の身許へという意味を持つ「アデュー」なのです。 しかし、ハイデガーにおいて死は確実に別れです。だから、彼は死ぬ際に言うだろうことは「サリュー」だと思われます。 そのようなハイデガーの死を見つめ歩み出すレヴィナスは、ハイデガーの立てた問いへの批判を掲げながらも常にハイデガーによって問われ続けているような状態に身を置いていくことになるでしょう。「アデュー」という言葉を、ハイデガーにおくりながら。 レヴィナスの主張は隅から隅までハイデガー批判ではありますが、彼は誰よりも正確に、丁重に、ハイデガーの問い、即ちその「遺言」を受け取ったと見る事はできるのではないでしょうか。 レヴィナスがハイデガーを嫌うことが出来るのは、ハイデガーを一人の他者として尊敬しながら、その言葉に耳を傾けることができたからでしょう。ハイデガーという存在も、レヴィナスという存在も、共に忘れることなく。 彼のハイデガー批判は苛烈で執拗ではあるけれど、その根本にはハイデガーという人の哲学を理解しようと言う廉直さがあるはずです。彼は、ハイデガーの問いを前に、レヴィナスとして対面し、レヴィナスとして「ノー」と応えた。 それはハイデガーの哲学をそこで打ち止めにしてしまおうというものではなく、その限界を示すことでさらにその先へ、彼方へと連れ出すようなものであったのかもしれません。 と、アデューを読んでいて改めて思ったので、ああいう感じにしました。 ね、ハイレヴィ萌えるでしょう???!!!!! なお、レヴィナスとハイデガーの死にたいする考えの違いはレヴィナスとデリダの解釈漫画「神の身許へ」の前半で、後半ではアデューについて触れてるので参考にどうぞ。
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September 2015
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