キルケゴールの「反復」を読み始めたんですけど、彼の苦悩があまりにも見るに耐えないので、哲学者達にコイバナさせてみた系SS 「…ひとつ聞いてもいいだろうか」
ふと、キルケゴールは思い出したように口を開いた。まさに、思い出したように、彼は向かいに座る男―ニーチェに問いかけた。その問いは唐突なものであったが、彼にとっては、今この瞬間にこの問いを発する事に対する説明はもう充分にされているように思えた。思い出したということが、追憶に呼び覚まされたということが、彼の言葉の裏づけとしてはもはや充分であった。その響きを、沈黙の中に問われた側の男も聞き取ったのだろう。何故と問う事はせずに、ニーチェは弄んでいた葡萄をひょいと口の中に放り込むと、鬱陶しそうにキルケゴールへ視線だけくれてやった。その沈黙は、先の問いに説明が不要であるのと同じように、返答として充分なものだった。 「君は、アドリアネを攫いきってしまえた時のことを考えたことがあるか? 君が誘惑し狂おしいまでの愛情を持って詩を歌ったアドリアネが振り向いて君の手をとったら、君に誘拐されることを承諾したら、君はどうなっていたと思う?」 「ハッ、そういう聞き方はフェアじゃねぇな」 ニーチェは長話には付き合っていられないとばかりに首を振った。 「お前は俺にどんな答えを期待してんだ? 済ました顔して黙ってんじゃねえよ。お前から話せ。」 そう言って彼は笑った。その笑みは、自分の心の広さ、聴覚のするどさ、氷山の鋭い冷気を吸い込むことへの少しの陶酔から彼の顔に浮かんだものであって、いわば殺人者の笑みであった。…まったく、彼を話し相手に選んだことは間違いだったが、至極賢明であった。キルケゴールはそう感じながら、静かにニーチェから目を逸らして答えた。 「そうだな、私に言えることがあるとすれば……、あれは死だった」 彼は静かに自分の手を見つめた。その汚れのない手の中に、かつての死の痕跡を思い出そうとしているようであった。 「君には想像も出来ないだろう。狂おしいほどに恋い焦がれた、身体が燃え上がるほど深刻に愛した女が振り返る時、頬を赤らめてイエスという時、彼女は私の手のうちで。死んだんだ。愛がその全額に達した瞬間、一切が失われたのだ…それはまさに死だった。誘惑者は仕事を終え、死体をひとつ作り出した! 僕の十年の仕事は、彼女に当てた何十通の手紙と詩は一つの死体に集約された。彼女が頷いたあの瞬間に、僕は誘惑者から殺人者になった」 手をぐっと握り締める。一人の無垢な娘を殺した時の感覚を思い出すために、自らを裁くように強く拳を握った。すると、追憶の風が吹いて彼にささやく。汝責めありや、責めなしや。彼は応えない。それは風が通り過ぎるまでどこか違うところに隠れていようと言う卑怯な試みではなかった。彼は何も言わずに立っていた。追憶の風が彼の身体を残酷に切り刻んでいくのに必死に耐えていた。審問の緊張に耐えていた。彼はさながら審問台に立たされた被告人のようにただ語った。 「あとはただただ、反復だ。いや…、反復への不安だった。それからの愛情は、僕が彼女に注いだ愛情は、冷たい死体に血を流し込んで腐食を防ぐようなものだった。死体に向かって、彼女がさもまだ生きているかのように歌いかけるのだ。彼女がまだ生きていた頃と同じだけの熱を私に駆り立ててくれるものであると自分にただ思いこませるだけの欺瞞であった。誘惑の恋は、誘惑によって終わり、やがては欺瞞になる。自らを誘惑するために彼女を誘惑する。僕は彼女を不幸にしてしまった。僕は彼女を殺してしまった! だからそれが彼女に気づかれぬよう思いつく限りの言葉で、僕が出しうる全ての音色をもって詩を歌った。しかし、しかし、いくら愛する人を、自らを欺こうと、神を欺くことは出来ない。挙式において、僕は神に問われる。もう隠し立ては出来ない。黙秘を貫く事は神の前では赦されない。結婚するなら、僕は正直に、全て話さなくてはならない。僕の秘密を、僕の罪を、彼女に話さなくてはならない、――神の前で」 彼は俯き気味にひたすら語った。さながら、「神の前に」頭をたれて懺悔をしているようだった。隣でそれに立ち会うニーチェには目もくれない。当然、ニーチェも彼にくれてやる視線などもちあわせていなかった。 「…君には出来るか?」 ふと、キルケゴールは唐突にニーチェの方へ振り返った。碧い瞳の中にしっかりと誘惑者の姿を写した。もとよりこれが、彼の目的だったのだ。彼はいまや追憶の風となって、誘惑の神を名乗る男を審判にかけようとしていた。ニーチェは始めから勘付いていた、だから何も語らないままにキルケゴールに問うたのだった。だが、そこには彼の太陽的天性が、彼のうちに秘める優しさが残ってしまっていた。そのことに、ニーチェも碧い瞳に問いかけられることで気がつき、憎憎しげに舌打ちをした。ツァラトゥストラは人々の元を去るべきだったということを彼は思い出したのだった。しかしいまや、そのささやかな反抗も追憶の風となった碧い目には無意味であった。 彼は問う。 「…君には出来るか、あなたはもう既にすっかり死んでしまっているんだと、愛する人に伝えられるか。あなたにはこれから一生、おれと一緒に君の心臓が再び動き出すように必死に歌ったり笑って見たりするんだ、虚しいだろう、だってあなたのものはもう一切が失われているのだから、と言って笑うことができるか。あなたには「教会の庭(キルケゴール)」に、墓場に住んでもらうと…告げることができるか。よし今あなたはおれの秘密を聞いてしまった、これからあなたは共犯だ! 一緒に逃げよう、どこまでも! いやまて、ここは神の御前だ。これ以上、どこへ逃げよう…。なんということだ、おれたちはもう罪を償うほかないらしい。おれたちが罪からの逃亡を企てていたのは、刑務所のまえだったんだ! "オーマイゴッド"! ならば仕方がない、あなたには一緒におれの罪をつぐなってもらおう。あなたを愛している……。そう、伝えることができるか」 「…気に入らねえな」 荒海から顔を出すように、ニーチェはやっとの思いで答えた。 「そんな目で俺のことを見るんじゃねえ。自分の葬式を上げたいなら、自分の死体でやれ。オレはお前のメランコリーに付き合って死体の代役をしてやるつもりはない。被告代理人の契約書に判を押した覚えはない。裁判官の代わりならまあ付き合ってやると、そう言ったまでだ。泣き屋が欲しいならあらかじめオレに何十ターレルかよこすくらいの賢明さを見せたらどうだ? とは言っても、オレはお前にその二倍の金を渡してサヨナラするけどな! ハハハ!」 「……ああ、そうだな」 残酷な笑みを浮かべるニーチェから、キルケゴールは静かに顔を背けた。まったく、狡猾な男である。彼は自分が死なずに済む方法を誰よりも心得ていた。裁判官の椅子に座り続けるための、生き残るための言葉を彼は誰よりも多く持っていた。とはいえ彼も出頭要請を受けていることには変わりはなく、そのことを彼自身も了解していたわけであるが。彼は、彼自身がソクラテスであること以外は承知しないのだ。それは、キルケゴールも同じであった。故に、彼はただ目を背けることだけにとどめた。二人の間に謝罪の言葉など必要なかった、――彼らはもとより同じ罪人であるのだから。 「まあ、そうだな…」 碧い瞳から解放されると、ニーチェは少し柔らかい口調でもって呟いた。 「お前の恋は確かに"悲劇"だ。だが、悲劇の後に待っていたのが死ではなかったことがお前の不幸だ」 その「慰め」の言葉は、彼がもとより心優しい人間であったことを充分に物語っていた。 キルケゴールはそれを聞いてわずかに微笑んだ。 「それに比べて、君は幸運だな。最期までディオニュソスでいられたんだろう」 「ああ、オレの求めたものは最初から『アドリアネ』だったからな。お前とは違うのさ」 「確かに、君とは違う。しかし、……同じことだ」 「馬鹿馬鹿しい」 ニーチェはキルケゴールの言葉をそう言って笑い飛ばした。 「いやはや、恋する男は大変ですね!」 唐突に、通りすがりの男が二人の間の沈黙を破った。今度こそと沈黙を貫くニーチェの代わりにキルケゴールが振り返ると、そこにはハイデガーが得意げな笑みを浮かべて立っていた。 「愛の反復をしたいなら、女に愛させれればいいんです! 女を上手く導いて、反復を作り出してやればいいんです。そうすれば、神を信じなくても愛は永遠に続きますよ! そうだ、彼女が飽きないように、もう一人の女を反対においてやればなおいい。あとは男が何をしなくても女は墓場に留まり続けますから。それで時々、俺は生き返ったふりをして彼女に微笑んでやりさえすればほら、簡単に愛は反復する!」 キルケゴールを見下ろしながら、ハイデガーははっきりと言った。まさに革命の英雄のような口ぶりだった。 「楽しいですよ、複数の女に愛されるというのは」 それはそれは愉快そうに、ハイデガーは笑ってみせた。その喜びはまさに人類の叡智と呼ぶにふさわしいものだ。しかし、頭のいい男は美しくない。ハイデガーの笑みは、キルケゴールの興味を殺ぐのには充分であった。 「まったく、君は結局はなから誰とも結婚する気がないんだろう、…もうすでに「君」という伴侶が君にはいるんだから、君が妻を持とうと愛人を持とうと、全て君の第二夫人にしかならない。君に結婚が云々と語る資格はない、いや語る必要などない。つまらない、ナンセンスだ」 「しかし、これが恋愛の上手というものです」 しれっと答えるハイデガーを、キルケゴールは軽蔑した。 「ははあ、君には随分といい弁護人がついているようだな」 「ええ、そうでしょう。証人達がうまくやりさえすれば、万事うまくいったのになあ」 嘲笑を受け流しながら、ハイデガーは目を細めて友人の姿を思い出す。カール・ヤスパース。彼さえ自分の台本どおりに台詞を読み上げてくれれば、自分はひとつも罰を、呪いを受けずにすんだというのに。そう沈黙のうちで唱えられた恨み言は恐らくここには居ないヤスパースにも届いているだろう。それを知っていて、彼は友の秘密を明かしたのだから。 彼はハイデガーの証人として審問台に立ちながら、ハイデガーの罪を暴いた勇気の裏切り者だった。彼が口を開かなければ、ハイデガーを裏切らなければ、おそらくハイデガーは彼の口に住むその腕のいい弁護人によって無罪放免にされていたことだろう。 「先生ー!!」 遠くで若い女がハイデガーを呼んだ。 「ああ、ハンナ」 ハイデガーが振り返ると、笑顔で手を振るハンナの後ろにはボーフレを始めとした多くの若者が彼を待ち受けていた。ハイデガーの証人達が、弁護人達が彼を呼んでいた。一人の裏切り者がなんだ、彼にはこれで充分だった。 「あはは! それじゃあ、失礼しますね!」 満足げに笑ってハイデガーが足早にその場を去る。 「散れ散れ、肉食人種め」 彼の気配が去ったのを感じると、死んだように押し黙っていたニーチェはそう呟いた。 「はあ、」 キルケゴールも重々しいため息をつくと姿勢を元に戻す。そして机に置かれていた葡萄をひとつつまみあげて弄んだ。 「…水をくれないかな」 「おお、飲め飲め」 ニーチェは愉快そうに友に水を注いでやった。差し出された水に、キルケゴールは祈るようにして口をつけた。透明な水は冷たく澄んでいて、酔いをさますにはうってつけだった。 「酒なんて飲むもんじゃないぜ」 「ああ、水で充分だな」 「そうだ、水ほど強い酒は他にない。素面に乾杯!」 「乾杯」
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